昭島市は、都心から西に約35km、東京都のほぼ中央に位置し、東・北は立川市、西は福生市、南は八王子市・日野市に接しています。面積17.33平方Km、人口は約110,000人を数え、多摩地区の中核的な都市として順調な発展を続けています。昭和29年5月1日、北多摩郡昭和町と拝島村が合併し、東京都で7番目の市として誕生しました。「昭島」という市名は、この二つの自治体名を合わせて命名されました。 昭和36年の夏、市域の多摩川でクジラの化石が発見されました。これにより日本がまだ大陸と地続きであったであろう頃、昭島市の周辺が古東京湾の波に洗われる海浜であり、多摩川の河口となっていたことが想像されます。北側に広がる立川段丘から南の多摩川に向かってなだらかな傾斜が続き、豊かなわき水にめぐまれたこの地には早くから先人が住み始め、その暮らしぶりは縄文早期の土器や住居跡に見ることができます。 戦国時代、多摩川の対岸に滝山城が築かれると、市域、わけても拝島は城下町のような性格を帯び活況を呈します。また、江戸時代には日光東照宮が建設され、八王子千人同心が日光を往還する、日光街道の要衝にあたる拝島を中心に宿場として栄えました。 江戸時代から明治初期にかけて市域には、東から郷地村・福島村・築地村・中神村・宮沢村・大神村・上川原村・田中村(作目村を含む)・拝島村の9か村がありましたが、明治22年の市制町村制により9か村での組合村となり、同35年には拝島村が分離独立し、その後、残りの8か村は合併して昭和3年に昭和村となりました。 明治末には製糸工場が相次いで操業を開始し、また大正時代には市域一帯が桑園化し、蚕種の生産を中心に全国屈指ともいえる養蚕村となりましたが、昭和に入り生糸価格が暴落し、さらに満州事変や日中戦争勃発による日本の戦時体制強化の中で立川飛行場に近かったため航空機を中心とする軍需工場と陸軍施設が相次いで建設されました。このため人口も急増し、特に軍施設が集中した昭和村は昭和16年に町政を施行しました。 戦後、東京の復興に伴い、市域でも年を追って新たな町づくりが進み、人口36,482人の昭島市誕生を迎えました。市制施行後は、工場誘致により産業が振興されるとともに、都心への通勤圏に位置することからの大型団地の建設があり、昭和62年には10万人都市となりました。そして今、21世紀を迎えるにあたり、「人間尊重」と「環境との共生」を基本理念としたまちづくりをめざしています。 「史跡めぐり」のページはこちらから
地下水100%のあきしまの水道水 「昭島の水はおいしい」と言われています。水道水には、川の水を利用したもの、ダムに貯めた水を利用したものや地下水を利用したものなどがありますが、昭島市では幸いにも地下水にめぐまれ、この地下水を利用して水道事業を行っています。地下水は昭島の宝です。しかし、自然の恵には限りがあります。いつまでもおいしい水が飲め、市民が誇れる財産としていくために、一人ひとりが節水に努めていきたいものです。 |