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昭島市

平成24年度環境学習講座第2回

更新日:2017年4月14日

環境学習講座

平成24年12月6日(木曜日)(午前9時から正午まで)

昭島市役所・市内散策

  • 講義・散策:歴史から学ぶ“あきしまの環境”
  • 講師:農業文化史研究家 宮岡 和紀 氏
  • 講座のねらい:拝島地域の歴史を振り返り、環境の視点から学ぶ。

(講座要旨)

前半は市庁舎内204会議室で座学が行われた。以下に講演内容の要点を記す。

講師の紹介:

拝島在住。教職を経て米、野菜などを生産する農業に従事。大学は理系専攻、現在、数独にはまっており、研究面でも数独的思考が役立っている。「千人同心往還 拝島宿の興亡」などの著作がある。ヨーロッパの中世史が拝島の興亡と似通っており、それが縁で研究開始。

はいじま名の由来:

高月にある円通寺(天台宗古刹)の守護神・旧山王(日吉)神社が多摩川対岸の小高い場所(嶋)にあった。円通寺から見て、この高い位置にあった鳥がよくとまる森に在る山王社に向かって拝んだことから「拝む嶋」即ち「拝島」となったと考えている。由来には、異説もある。

拝島成立期の地形的特徴:

河岸段丘地形にあって雨水や湧水が野水(のみず)となり、凹部は湿原になっていた。拝島宿の多くは、湿原となっていたため居住地として適していなかった。野水は龍津寺境内から下の川へ流下していた。

拝島宿の成立:

江戸時代の初め、徳川家康を祀る日光東照宮を警護するため八王子千人同心が組織され、その往還路の宿場として新設された。宿場新設に当たり、湿原改造の大規模な造成工事が行われた。何故、拝島周りになったか。千人同心往還は当初、千住周りだった。変更の理由として川越喜多院(天台宗僧侶の権威が強かった)の存在が考えられる。拝島大師や佐野大師の影響もあったかも。

拝島宿の形成:

旧拝島村(現在の拝島団地1号館周辺から天神社西部周辺まで)の200戸近い住民が移り住んだ。東部には以前から居住していた臼井一族、久保家、ほかの屋敷が連なっていた(河岸段丘上で小高い位置にあり、土木工事が行われた形跡はない)。

造成部の大通り中央には掘割を設け排水路とし、両側は鍵盤状(間口9メートル)の屋敷地とした。拝島宿の造成・移転は、旧上河原集落の移転が経験として、更には以降の新田開発にも活かされたと考えている。

拝島分水:

宿場内には、完成後間もない玉川上水から分水(大通りの掘割へ通水)が配され飲水に供された。現在は暗渠となっている。反対運動があったものの多くの住民は暗渠・道路舗装を優先した。現存すれば、良質な環境資源になったと考えている。

拝島の盛衰:

明治34年、養蚕業最盛期を背景に拝島産業銀行が設立され活気を呈したが、大正5年に廃業された。これによって拝島は衰退。大正12年、関東大震災が発生、都心への一極集中の弊害が指摘され震災に強い拝島が脚光を浴びた。山科宮の別邸建設(耐震建築)を皮切りに、設計に関わった鈴川博士、三井の別荘、糸山氏、永田氏ら著名人が移り住むこととなり、拝島に需要と雇用を生み、息を吹き返した。不在地主が多かったことも特徴とされた。

拝島と水運:

拝島坂下は羽村堰から筏で一泊目の距離にあり、水運による物流の拠点であった。水車が2機あり、人力車24台が稼働していたことからも隆盛のほどが窺われる。

後半は、拝島地区へバスで移動し、地形の現状、歴史遺産である寺社等を実踏しながら解説をして頂いた。

実踏コース:

  • 九ケ村用水堰跡(水神様)
  • 伏見宮邸跡・旧山王神社跡(啓明学園内)
  • 三角路(旧奥多摩街道)
  • 拝島天神社→啓明学園正門前
  • 龍津寺境内→久保家屋敷内
  • 神明神社
  • 普明寺
  • 日吉神社
  • 拝島公園

見どころ:

  • 伏見宮邸跡(旧山王社跡)から高月の円通寺を望み、両者の位置関係が分かった。
  • 啓明学園幼稚園の北方面は下り傾斜となっており、また拝島天神社周辺から東南方面へと続く傾斜が確認できた(現状は宅地化等で地形が平準化され緩やかとなっている)。熊川方面からの野水はこれらの窪地を浸し、龍津寺境内から下の川へ流下した状況が分かった。
  • 龍津寺墓地、普明寺墓地の墓標の位置から檀家にまつわる歴史的背景が窺い知れた。

(記録:環境学習講座スタッフ 永井 康淑)

お問い合わせ先

環境部 環境課 計画推進係(2階7番窓口)
郵便番号:196-8511 昭島市田中町1-17-1
電話番号:042-544-4331(直通)
ファックス番号:042-544-6440

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